『嫌われる勇気』何度も読んで アドラー心理学の現実的な実践方法を考えました!

こんにちは~ みぃの夫 です!

本やオーディオブックが好きで、毎日いろいろ読んだり聞いたりしていますので、そこから学んだことやいろいろ考えたこと、実際にやってみて良かったことなんかを紹介していまーす!

理想論にすぎないと言われがちな「アドラー心理学」ですが、この本で現実的な実践方法が見つけられました! 

この本は世界中でベストセラーになっていて、「アドラー心理学」を一躍有名にしました。
多くの人が書評や要約を書いていますし、こんなお硬い本がこれほど売れているってことは、それだけ、今の人たちに刺さるものがあったってことだと思います。
特に有名なのが「承認欲求」の否定です。SNS全盛期でみんなが他人の「いいね」=「承認」を求めてやまなくなっていることを、「ちょっと行き過ぎじゃない?」って感じる人が多いんだと思います。
「承認欲求」は誰にでもあるとは思いますが、ここまでみんなが求めている状況は、なんか違和感ありませんか?

実はこの本、数年前から何回も読んでいました。でも、「あーそれそれ」ってかなりしっくりくる部分があるかと思えば、「いや、それ違うでしょ さっき書いてあったことと矛盾してない?」って部分があって、両極端に分かれるので、どう解釈していいか わからない本でした。
ただ、別の本をいろいろ読んでいく内に、「あーこうことなのかも」って思えることも徐々に多くなってきました。Webサイトや動画等で、この本を読まれた方のさまざまな意見も参考にし、自分なりの解釈が固まってきました。

なので、自分なりの解釈を踏まえて、「これはいい 役に立ちそう」って思ったこと、「実践できそうなこと」を紹介したいと思います。ただ、やっぱり納得できないってこともあるので、「自分にはちょっと合わなさそう」って思ったことも合わせて紹介しまーす。

この本が気になっている方にはもちろんですが、この本を読んで深く考えている方にとって特に参考になると思いますので、ぜひ最後までご覧ください。

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目次

今回読んだ本

岸見 一郎 (著), 古賀 史健 (著)(2013/12/13)
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』ダイヤモンド社

今回読んだ本は、岸見 一郎さんと古賀 史健さんの「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」です。
岸見 一郎さんは、日本におけるアドラー心理学の第一人者で、アドラーの著作も多数翻訳しています。
古賀 史健さんは、臨場感あふれるインタビュー原稿を得意とするライターさんです。

他にも、アドラー関連の本を数冊読みましたが、こちらが特にオススメです。
今後、紹介したいと思います。

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本のあらすじ

本書は、フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称される、アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話」形式でまとめた一冊です。
欧米で絶大な支持を誇るアドラー心理学。「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、シンプルかつ具体的な“答え”を提示しています。

本の中で「ここは大事」だと思った内容

1 トラウマと思いこんでいる過去の出来事は自分の解釈で変えることができる

  • どんな経験も、それ自体は成功の原因でも失敗の原因でもない。辛い経験によるショック、いわゆるトラウマに苦しめられている人がいるが、それは過去の経験が原因なのではなく、経験に与えた意味によって自ら苦しんでいる。辛すぎる練習に耐えた経験でも、成功していれば良い経験になるし、失敗していれば思い出したくもない経験になる。
  • 人は過去の経験にどのような意味を与えるかによって、自らの生を決定している。トラウマは存在しない。問題は過去に「なにがあったか」ではなく、その出来事を現在「どう解釈しているか」。
  • 他の誰かになりたいと願う人は、「人になにが与えられているか」にばかり注目している。大切なのは「なにが与えられているか」ではなく、「自分に与えられたものをどう使うか」である。
  • アドラーは、「これまでになにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかになんの影響もない」と言っている。自分の人生を決めるのは、過去ではなく、「いまここ」に生きるあなたなのだと。
  • 人間は、原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではない。自らの人生を自らのライフスタイルを自らの手で選ぶ。われわれにはその力がある。他者や環境によって決定されているのではない。
  • アドラー心理学は「勇気の心理学」であり、「使用の心理学」。つまり、「なにが与えられているか」ではなく、「与えられたものをどう使うか」。
みぃ

冷蔵庫にしまっておいた「マルセイのバターサンド」が突然なくなったのがトラウマで、ついついたくさん買ってきちゃうよ。

それはたくさん食べたいって目的に過去の経験を利用しているだけだよね。

みぃ

そうかもしれないけど、なくなったのは事実だし。

どうせ食べたの忘れただけでしょ。
後が怖いから、誰もとるはずないし。

2 人間の悩みはすべて対人関係の悩み だから いちいち権力争いをしない

「劣等感」と「劣等コンプレックス」

  • 「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」 これはアドラー心理学の根底に流れる概念。誰もいなくなればあらゆる悩みも消え去る。
  • われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく「主観的な解釈」。しかし、「主観的な解釈」は自分勝手な思い込みなので、どう解釈するかいくらでも選択が可能。自分の身長が低いことを短所と見るか長所と見るかは、自分で選ぶことができる。
  • 「劣等感」は、努力や成長を促すきっかけになるなら、悪いものではなく、むしろ望ましい。しかし、「学歴が低いから成功できない」、「器量が悪いから結婚できない」など、自分の劣等感を言い訳に使いはじめる「劣等コンプレックス」は望ましくない。
  • 「AだからBできない」は、本来はなんの因果関係もない。しかし、成功できない、Bできないと考えるのは、単純に「一歩前に踏み出すことが怖い、現実的な努力をしたくない、今の時間を犠牲にしたくない」と考えているから。多少の不満や不自由があっても、今のままでいたほうが楽だから、ライフスタイルを変える勇気が出ない。そして、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があると思っている。

「主張の正しさ」と「権力争い」

  • 対人関係の軸に「競争」や「権力争い」があると、人は対人関係の悩みから逃れられない。競争の先には必ず勝者と敗者がいるから、不幸から逃れることができなくなる。
  • 相手の言動によって腹がたったときには、相手が「権力争い」を挑んできていると考える。本来の議論の争点ではなく、相手に勝ちたいという「権力争い」になっている。勝つことによって自らの力を証明することが目的になっている。
  • たとえ言い争いを制したとしても、敗北した相手は復讐を考え、解決はほとんど不可能になる。そうならないためにも「権力争い」を挑まれたら、絶対に乗ってはいけない。「権力争い」を察知したら、いち早く争いから降りる。相手のリアクションに対してリアクションを返さない。
  • 自分が正しいと思って相手を非難してしまうのは、多くの人が陥る、対人関係の罠。対人関係のなかで、「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに「権力争い」に足を踏み入れている。
  • 「わたしは正しくて相手は間違っている」 そう思った時点で議論の争点は、「主張の正しさ」から「権力争い」に移ってしまっている。「わたしは正しいから、勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。
  • そもそも「主張の正しさ」は勝ち負けとは関係がない。自分が正しいと思うなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき。また、自分が間違っていたと思うことや、「権力争い」から降りることは、「負け」ではない。 
みぃ

すべてのみは対人関係の悩みってことは、ちょっと太ってきて悩んでるのも対人関係ってこと?

そうだよ。だって、比較する人がいなくて、クマしかいないなら、超スレンダーってことになるしね。

みぃ

じゃあ、周りの人全員をクマだと思えば、「マルセイのバターサンド10個入」も1日で完食してもいいってことだね。

人間捨ててまでして食いたいのか

3 「自分の課題」と「他者の課題」を分離し 「他者の課題」に踏み込まない

  • 他者からの承認を求め、評価ばかり期待していると、承認されることを願うあまり、ほんとうの自分を捨てて、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。
  • 他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」 相手が思いどおりに動いてくれなくても、それが当たり前なのでそれ以上求めてはいけない。
  • 「これは誰の課題なのか?」という視点から、「自分の課題」と「他者の課題」を分離していく必要がある。そして「他者の課題」に踏み込まないようにする。
  • あらゆる対人関係のトラブルは「他者の課題」に土足で踏み込むこと、あるいは「自分の課題」に土足で踏み込まれること によって引き起こされる。そのため、「☆課題の分離」ができるだけで、対人関係は激変する。
  • 誰の課題かを見極める方法は、シンプルに「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考える。
  • 子供が勉強しなくとも、何をしているのかを知ったうえで見守る。勉強は「子供の課題」であることを伝え、いつでも援助できることを伝える。「親の課題」ではないため、頼まれもしないのに口出ししてはいけない。たとえわが子であっても、親の期待を満たすために生きているのではない。
  • 馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない。本人の意向を無視して強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけ。自分を変えることができるのは、自分だけ。
  • 信じるという行為も「☆課題の分離」。相手のことを信じることは「自分の課題」。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは「他者の課題」。そこを線引きしないままに自分の希望を押し付けると、ストーカ的な介入になる。
  • 対人関係に苦しんだとき、「これは誰の課題なのか?」を考える。そして、「☆課題の分離」をする。どこまでが「自分の課題」で、どこからが「他者の課題」なのかを冷静に線引きする。そして、「他者の課題」には介入せず、「自分の課題」には誰ひとりとして介入させない。
  • 対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれという気持ちが沸き上がってくる。「☆課題の分離」とはかけ離れた発想になる。われわれは「見返り」を求めてもいけないし、縛られてもいけない。
  • 「承認欲求」で他者の顔色を窺いながら、他者の期待を満たすように生きることは、自分に嘘をつき、他者に対しても嘘をつき続ける生き方になる。「☆課題の分離」をすることは、自己中心的になることではない。むしろ「他者の課題」に介入することこそ自己中心的な発想になる。親が子供に勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口をだすことなどは、自己中心的な発想以外のなにものでもない。
  • アドラー心理学では、「すべての悩みは対人関係にある」と考える。そのため、対人関係から解放される自由になるには、他者から嫌われることも必要だと考える。
  • 嫌われることは苦しいし、「承認欲求」を満たしたい。しかし、すべての人から嫌われないようにする生き方は不自由きわまりない。他者の評価を気にかけず、嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないコストを支払わない限り、自分の生き方を貫いて自由になることできない。
みぃ

他人の承認なんていらない、嫌われてもいい って、なんかさみしくない?

そうだよねー 喜ぶ顔がみたいから何かしてあげたいってことも多いしね。

4 「縦の関係」で褒めたり叱ったりしない 「横の関係」で援助し勇気づける

  • 「☆課題の分離」ができておらず、「承認欲求」にとらわれている人は、きわめて自己中心的。他者はどれだけ自分を評価してくれるのか、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのかを考えているため、他者を見ているようで 実際には自分にしか関心がない。
  • 「他者の課題」へ介入してしまうのは、自分は正しくて相手は間違っていると思い込んで、相手を望ましい方向に導こうとしているから。相手を自分よりも低く見ており、対人関係を「縦の関係」でとらえている。子供に「勉強しなさい」と命令する親などは、この典型であり、「他者の課題」に土足で踏み込んでいる。
  • 他者への介入ではなく援助する。援助とは、「☆課題の分離」であり「横の関係」がある。勉強は子供の課題であると理解したうえで、子供が自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかける。
  • ほめるのでも叱るのでもなく、「横の関係」に基づいて援助することを、アドラー心理学では「勇気づけ」という。人が課題を前に踏みとどまっているなら、くじかれた勇気を取り戻すことが先決。
  • ほめることは能力のある人が能力のない人に下す評価なので、もし褒めてもらうことに喜びを感じているなら、それは「縦の関係」に従属し、自分には能力がないと認めていることになる。
  • 人は、「自分には価値がある」と思えたときにだけ、勇気を持てる。そして、人は、「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。これがアドラー心理学の答え。
  • 共同体にとって有益になるには、「この人はなにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるのか?」を考えなければならない。共同体への所属感=「共同体感覚」は、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくもの。
  • 人は、他者から良いと評価されるのではなく、自らの主観によって、他者に貢献できていると思えることで、はじめて自らの価値を実感することができる。
みぃ

褒めて育てるってよく聞くけど、それだと親の評価に依存しちゃうからよくないってこと?

そういうことになるけど、まったく褒めないのも なんか違う気がするなー

みぃ

じゃあ、褒めるんだけど、結果を褒めるんじゃなくて、努力した過程を褒めるとかならいいんじゃない?

あーそういうことかも。
「評価」じゃなくて、「勇気づけ」に近い褒め方なら「横の関係」になるね。
褒めること全般がダメってわけではなさそうだね。

5 他者からの承認によらない「主観的な他者への貢献感」が本当の幸福につながる

「自己受容」と「他者信頼」と「他者貢献」

  • 多くの人は、笑われなくない、馬鹿にされたくないという一心で、自身にブレーキをかけ、ありのままの自分による対人関係を回避している。しかし、ありのままの自分で自由に振る舞うためには、自己への執着を他者への関心に切り替え、「共同体感覚」を持てるようになる必要がある。そのために必要なのが、「1自己受容」、「2他者信頼」、「3他者貢献」の3つである。
  • 「1自己受容」とは、できもしないのに「わたしはできる」と考える自己肯定ではなく、できないなら「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく進んでいくこと。また、「なにが与えられているか」に注目するのではなく、「与えられたものをどう使うか」に注目することでもある。「☆課題の分離」と同じで、自分の力で変えられるものに注目する。
  • 対人関係の基礎は「信用」ではなく「2他者信頼」によって成立していると考えるのがアドラー心理学の立場。「2他者信頼」にあたって、いっさいの条件をつけずに無条件に信じる。無条件に信頼して裏切られるかもしれないが、裏切りを決めるのは、「他者の課題」。自分はただ「わたしがどうするか」だけを考えればいい。
  • 「2他者信頼」は、対人関係を良くするため、「横の関係」を築いていくための「手段」。ただし、もし関係を良くしたくない他者ならば断ち切ってもいい。断ち切ることは「自分の課題」だから。
  • 「2他者信頼」は他者を「仲間」だと見なすことにつながる。そして、他者が「仲間」であれば、自分の属する共同体に居場所を見出すことにつながり、「共同体感覚」を得ることができる。
  • つまり、「共同体感覚」を得るためには他者を「仲間」だと見なす必要があり、そのためには「1自己受容」と「2他者信頼」の両方が必要になる。
  • そして、われわれは、「自分の存在や行動が共同体にとって有益である」「誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。つまり、「3他者貢献」により「わたし」の価値を実感する。
  • 「1自己受容」、「2他者信頼」、「3他者貢献」は円のように結びついている。ありのままの自分を受け入れる(1自己受容)からこそ、裏切りを恐れることなく「2他者信頼」することができる。そして、「2他者信頼」で他者に無条件の信頼を寄せて 周囲の人々は自分の「仲間」だと思うからこそ、「3他者貢献」して「わたしは誰かの役に立っている」と実感でき、ありのままの自分を受け入れる(1自己受容)ことができる。

「幸福とは主観的な貢献感」

  • 人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないこと。この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意している。「わたしは共同体にとって有益である」、「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる。
  • しかも、「3他者貢献」が役に立っているか判断するのは「他者の課題」であって、ほんとうに貢献できたかどうかは自分にはわからないので、「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な貢献感を持てればそれでいい。
  • 「幸福とは主観的な貢献感」 それが幸福の定義。
  • 多くの人は、貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めてしまっている。「承認欲求」によって貢献感を得ようとしている。しかし、貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、他者が望む人生を生きることになる。「承認欲求」を通じて得られた貢献感には自由がない。
  • もしほんとうに貢献感が持てているなら、他者からの承認はいらない。「承認欲求」にとらわれている人は、いまだ「共同体感覚」をもてておらず、「1自己受容」や「2他者信頼」、「3他者貢献」ができていない。「共同体感覚」さえあれば、他者からの承認はいらなくなる。
  • アドラー心理学では、自由な人生の大きな指針として「3他者貢献」を掲げる。「他者に貢献するんだ」という指針さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
みぃ

他人にいいねって言われてないのに、自分だけでいいと思うのは、かなり自信がないとムリかも。

確かにそうなんだよねー
けど、そう思うのは 人の評価を気にしすぎてるってことだよ。
「人の評価は自分の課題じゃないから考えない」とわかっただけでも 気が楽じゃない?

みぃ

そうかもね。
世間体を気にしすぎると幸福にはなれないってことだね。

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「これいい 役に立ちそう」って思ったこと3選

相手の意見を「主張の正しさ」と「権力争い」に分けて考え「権力争い」だったら 降りてしまう

人と話してて意見が分かれたとき、最初はお互いの主張のことを説明しているのに、いつの間にか、自分が正しいから負けられないって感じになってること、けっこう多くないです? 

特にビジネスの場でお互いのプライドがぶつかって意地になっちゃうと、目的に合ったベストな結論より、お互いが負けにならないような どーでもいい妥協点に落ち着いたり、決裂したりってなりがちです。
「なんでわからないかなー」ってモヤモヤが残るんですよねー

なので、この本を読んで、議論の後になんかモヤモヤするときって、「主張の正しさ」よりも「権力争い」をしてたんだなーってことに気づかされました。

だから、議論の最中は相手の意見を「主張の正しさ」と「権力争い」を分けて考えて、「権力争い」になったって思ったら、降りてしまうっていうのは理にかなっているなーって思いました。

みぃ

夫婦間でもそれやってくれるといいんだけどなー

それはムリだよー だって、夫婦や親子みたいな近い関係だと、主張の正しさよりもそのときの感情が最優先でしょ。

みぃ

そっか、正しくなくても気分が良ければそれでいいしね。

そうそう、気分しだいだから大変なんだけどなー

「自分の課題」と「他者の課題」を分離して、「他者の課題」へ踏み込まない

他人の言動が気になになると、つい、なにか言ったり、働きかけたりしたくなりがちです。
特に親しい人だと考える前になにかやっちゃいませんか? 
でも、なにかしたくなったとき、その前に、それが「自分の課題」なのか「他者の課題」なのかを考える。
「他者の課題」ならあまり言い過ぎない、やりすぎないってことは、自分のためにも他者のためにも すごく大事だなーって思いました。

スティーブン・R・コヴィー博士の著書『7つの習慣』の「関心の輪」と「影響の輪」に似ていると思います。
自分がエネルギーを注ぐべきものは、コントロールできない「関心の輪」の中にあることよりも、自分がコントロールできる「影響の輪」のなかにあることだと。

「自分の課題」と「他者の課題」の分離とは、「適度な距離感」なんだと思います。「余計なお世話」はしないに限ります。

みぃ

世話好きはよくないってことかな?

いいこともあるけど、お世話される人の本音がわからないことが多いから、やり過ぎはよくないよねー

みぃ

確かにね。お世話される側は嫌だとは言いにくいしね。

だから適度な距離感が大事なんだよ。
けど、人によって“適度”が違いすぎるから、難しいんだよねー

誰かの役に立っているという「他者貢献」感で自分の価値が実感できる

これは確かになーって思います。
逆に、自分に価値があると思えるときって、誰かの役に立っているとき以外ないですよね?
この本でこれを読んで、アインシュタインが言ったことがすごく自分の中に入ってきました。

1922年にアインシュタインが来日して京都大学の学生か、「人間は何のために生きているのですか?」と質問したとき、アインシュタインは「他人を喜ばせるためです。そんなこともわからないんですか」と答えたことです。
それほど当たり前のことなのに、言われないと気づけないってことは、対人関係を複雑に考えすぎてるってことだと思いました。とてもシンプルな答えで気に入りました。

みぃ

他者貢献で幸福になれるなら、「他人の課題」に介入してでも、世話を焼き続ける人が最強ってことにならない?

あーするどい!確かにねー けど、そんなことを続けてたら、過度な世話好きの人とお世話される人の関係は崩れちゃうよ。

みぃ

それもそうだね。世話好きな人の自分勝手を押し付けてるだけだもんね。

そうそう、「他者貢献」の前に、まずは「他者の課題」に介入しないってことだね。

「自分にはちょっと合わなさそう」って思ったこと

トラウマは存在しない 現在の自分がどう解釈しているかだけ

例えば、過去いじめにあっていたから、積極的に友達をつくれないって考えている人がいます。
でも、ホントは、友達づくりに失敗するのが怖いから、今、行動しなくてもいいように過去のいじめを理由に使っている。
一方で、過去のいじめで人の弱さがよくわかったから 友達づくりが上手になったって人もいる。
両方とも、今の行動の理由に過去のいじめを使っている。同じような出来事なのに大きな差になっているのは、現在の自分がどう解釈しているかだけ。だから、この本では「トラウマは存在しない」と言ってます。

確かにこの考え方は合理的だと思います。でも、すべての人は子供の頃、親や周囲の影響を多大に受けて育っていますし、同じような出来事でも、個人が感じる辛さや苦しさには大きな差があります。
それに、多くの人は「トラウマなんて存在しない、そう妄想しているだけ」と考えられるほど心が強くないと思います。

なので、トラウマの影響から開放されるためには、存在しないと考えるのではなくて、存在するけどそれは今の状況とは関係ないという実感を積み重ねていくことが大事ではと思いました。まずは、あるものはあるって認めないと、その先に進めないと思います。

みぃ

キッチン掃除のときのゴキブリがトラウマで、シンク下の掃除ができなーい!

あーそれ、この本で言ってた、目的のためにトラウマを利用しているっていう典型だ。掃除したくないだけだよね。

だいたい、歴戦のゴキブリハンターがトラウマ抱えるわけないし。
ゴキブリのほうがトラウマかも。

他者の「承認欲求」を満たす生き方は 自分に嘘をつく行き方であり 自由になれない

この本の要約サイトやまとめ動画で登場回数が一番多いなーって思ったのが、この「承認欲求の否定」です。
「すべての悩みは対人関係にある」から、悩みから開放されるには、「他者から承認」に頼らずに嫌わることも必要だと。

確かに、人から嫌われないことを過度に気にするようでは不自由きわまりないし、自分の自由がどんどんなくなっていくのはよくわかります。

だけど、ほとんどの人は、そこまで割り切れるほど強くないって思いす。
You TubeやインスタやフェイスブックやTwitterが、「いいね」や「高評価」のフォローでここまで爆発的に広まっているのを見ていると、「承認欲求」は誰もが持ってて、人間の根本的な欲求であるのは間違いないですし。

だからこそ、「承認欲求」を無理やり押さえつけるのではなく、多少は求めていいけど、求め過ぎは自分の自由が狭くなるから、「依存しないように気をつけよう!」くらいの意識がちょうどいいと思いました。

みぃ

「承認欲求」を求めてはいけないから、「嫌われる勇気」かー
でも、嫌われてもいいって思うなんて相当自信がないとムリじゃない?

そうなんだよねー
ごく一部の人でも嫌われてるってわかるとヘコむしね。

みぃ

だから、嫌われてもいいってのが引っかかるなー

それ同感だよ。だから、「嫌われてもいい」ってよりも、「全員に好かれなくてもいい」ってのがちょうどいいかもね。

さっそく実践してみたこと」3選

仕事で議論するとき 相手の意見が「主張の正しさ」か「権力争い」かを意識する

ビジネスで相手の意見が「主張の正しさ」を説明しようとしているのか、「権力争い」で勝ちにこだわっているのかを考えながら議論するようにしました。
それを考えないで議論すると、相手が「権力争い」っぽい意見を言ったときに、自分も無意識にムキになって対抗してしまうからです。

相手の意見が「主張の正しさ」に近いと思えたら素直に聞けるし、「権力争い」に近いと思えたら対抗しない選択肢をすぐとれるので、議論がかなり効率的になりそうです。

みぃ

「権力争い」に対抗しない選択肢って どういうこと?

たとえば、相手がお客さんとか上司なら「そうですねー」って勝ちを譲って、相手が対等なら「自分の意見は違う」ってだけ伝えて、それ以上議論しないことだよ

みぃ

やっぱ夫婦や親子とはちょっと違いそうだね。

そういう近い関係は理屈がどうこうよりも感情が最優先だからね。

「他者の課題」に対し、相手との距離感で踏み込み方を変える

「自分の課題」と「他者の課題」を分離して、「他者の課題」へ踏み込まないことは、頭ではわかっても、相手によってはなかなか行動には移せないと思いました。
特に、夫婦とか親子とか親友とかかなり近い人とは、「他者の課題」とわかっていても「自分の課題」でもあると感じてしまいます。

例えば、子供の勉強についても、「子供の課題」だから親がしつこく介入するのは絶対ダメだと思いますが、受験本番までの時間はあっという間に過ぎてしまうので、子供が「自分の課題」と意識するのを待っていられません。
なので、絶対ではなく、なるべく「子供の課題」へ踏み込まない程度の意識がちょうどいいんじゃないかなって思います。

要は相手との距離感で、近い人は「なるべく踏み込まない」、それ以外の他人は「自分に関係がなければ絶対踏み込まない」でいこうと思いました。

みぃ

頭ではわかるんだけど、子供がゲームばっかしてると、「勉強しなさい」って言わずにはいられないよ。

言い過ぎは良くないけど、ある程度のプレッシャーもいると思うから、3回思ったら1回言うくらいでいいんじゃない。

みぃ

うーん、それならできそうかも。

まーでも、言いたいときは言えばいいんじゃない。
「子供の課題へなるべく踏み込まない」って意識してるだけでも、だいぶ違うと思うしね。

「他者貢献」感を実感するために、「小さな承認」を求めてもいいことにする

「他者貢献」が幸福につながるってのは納得だけど、人の役に立っているかどうか確かめるのに、「承認欲求」が強くなってしまうのは、人としてしょうがないことだと思います。
「ブッダの7つ欲求」や「マズローの法則」でも「承認欲」は人間の重要な欲求って言われてますし。
けど、この本では、自由でいるために「他者の承認」を求めるなって言っているんですよねー 

「主観的な貢献感=ある意味自分勝手な貢献感」が持てればいいってことなんでしょうけど、他人からの承認なしに「主観的な貢献感」を持つのって、かなり意思が強靭か 常に勘違いしていないと、相当ムズくないですか? 

だから、無理に「承認欲」を消すんんじゃなくて、あるものはあると認めて、そのうえで「他者からの承認」に依存しすぎないのが現実的かなーって思いました。
それには、他者からの「小さな承認」を目的に行動するのはいいことにして、「大きな承認」は「他者への依存」になるから求めてないようするのがいいかなって思います。

「大きな承認」と「小さな承認」の区別は、例えば、親が望む職業に就くことや、社内で優秀だと認められるために寝る間も惜しんで残業すること なんかは、自分が不快や不自由を感じてしまっているので、「大きな承認」になっていると思います

要は、「承認欲が満たされること」>「自分の心地よさ」のとき、目的が「大きな承認」になってると言えそうです。
今のところの僕の答えとして、「自分の心地よさ」>「承認欲が満たされること」の状態になっているときは、他者の「小さな承認」を求めて「他者貢献」してもいいってことにしました。

みぃ

やっぱり、ある程度 承認欲は満たされたいよねー

人間関係を良くするには、相手の承認欲を満たしてあげることが大事って言うしね。

みぃ

でも、みんながこの本を読んで実践したら、誰も承認欲求に反応しなくなっちゃうよ。

そうなると、人の役に立とうって意欲も薄れる気がするかも。
やっぱ、「他者貢献」にはある程度の「承認欲求」は必要じゃないかなー

今回は以上でーす。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!

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